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Jan Frenzy

Jan Frenzy

ヤン・フレンジー(Jan Frenzy)

大阪府出身のOLシンガーソングライター。残業やら会議やら強さや弱さや思惑なんやかんやと戦いながら、土日祝代休有給振休をフル活用して全国に歌いに行く日々。古いロック、ジャズ、ラテン、ボサ、日本歌謡などを好む。それらを無節操なまでに吸収し、ガットギターで昇華したサウンドに、一癖ある独自の日本語歌詞を乗せ、曲ごとに表情を変えながら歌い、彩る。ソロの弾き語りスタイルを中心に、時折、バンドを従えつつ、関東近郊に加え、呼ばれたら全国どこでもライブを行っている。他称デジ女。出演依頼絶賛受付中!


 

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略(?)歴:

幼少のころにはピアノ教室へ通わされ、音符の読み方などを覚える。絶対音感を育てようとするヤ○ハ音楽教室がストレスになり、個人のピアノ教室へ変更する。

姉の影響で小学生低学年のころにユニコーンのファンになる。この頃からなんとなくギターを弾きたいといい始める。さらに母の影響で歌謡曲も毎日ラジオで聞かされ、幼少期から歌謡曲の情操教育を受ける。また、父の影響でラテンギターのテイストもなんとなく注入される。

高学年のころ、ギターがほしいという私を見て、親がどこからともなくギターを買ってきたが(または誰かからもらってきたが)弦高がおそろしく高いうえに弦も太く、小学生の女子には弾きこなせず、父の買ってきた堀内孝雄弾き語り全集のコードをちょろちょろ弾いて「なみだまじりのぉ~こいうたわ~」などと口ずさむにとどまる。果たして、自分の描いたギタリスト像に近づけたかどうか分からなかったため、びっくりマンシールを貼るなどしてみたものの、そのままあまりギターに触らなくなる。そのころアホだったため母親が少しでも勉強するようにと入会させた進研ゼミで、まんまとご褒美のプレゼント目当てにテストをせっせと送るようになる。テストを提出するとポイントシールがもらえ、そのポイントに応じてプレゼントが豪華になる、アホで欲深い子供にうってつけのプログラムで、まんまと幼いヤンは小さいキーボードほしさにせっせとテストを提出した。そうしてたくさんポイントを溜めてやっともらえる小さいキーボードを手にし、ドラムのリズムトラックに乗せて作曲を始める。

中学に上がると洋楽も聴くようになり、ロックバンドのギタリストになりたいと強く思うようになる(卒業文集に将来の夢を「ロックスターかこじき」と書いたため、先生に「こじきは差別用語だから変更しなさい」と言われ「ホームレス」と書き換えさせられる)。

当時、理数系の成績が恐ろしく悪かったため、心配した母親が「数学のテストで3位以内に入ったらエレキギターを買ってあげる」と約束する。実際に2位になってしまうも、受験があるからとバンド活動は高校までお預けになる。大人って汚い!と思った瞬間である。

ちなみに、隠れて組んでいたバンドは「アホの佐藤」さん率いる「あぽたんず」だった。どうしようもないオリジナルソングの数々を作り、「友達少ない でも平気」といった歌詞で、当時はボアダムズやUFO OR DIEのまねをしていた。当時、初めてのギターは黒のフェンダーストラトキャスターを買いに行ったが、家に戻ってほくほくしながら開けてみたらなぜかキッスのポールスタンレーモデル(Ibaneze)が入っていた。これが私のファーストギターである。キッスの曲すら知らないのに。

高校は当時好きだった筒井康隆の出身校の高校を無理やり受験。当時通っていた中学からは絶対に受からないと言われていた、いわくつきの受験だったが、高校に入ったら軽音楽部に入りたいと言う思いもあり受けてみたら合格。ただ、高校に入ってから読んだ筒井康隆の別の本で「高校は面白くなかった」と書いてあり、騙された気分になる。

それでも高校生活はずっと軽音楽部でバンド活動にあけくれていた。嫌われクラブだったため窓を閉め切って練習せねばならず夏は汗がねっとりとギターに染み込み地獄のようだった。文化祭での思い出は友達に頼まれてサポートしたB’zのコピーバンドで最後のサビ終わりはギターソロで終わる曲構成だったが、私以外のメンバー全員がそのことを忘れてそのまま曲を終わらせてしまい、結局私だけがギターソロをなんのバックサウンドも無いまま1分ほど弾き続けたことだ。この経験のおかげで現在の弾き語りスタイルに抵抗がなくなったと言われている。

また、音楽とは関係ないが当時はイッセー尾形にはまり、ファンクラブに入っていた。写真集のサイン会にも足を運び一緒に写真を撮ってもらったことも懐かしい。しかしそのとき一生懸命おめかしした一張羅が「カンフー服」だった。スリットの入っている女性物ではなく、普通の黒いカンフー服を来た女子高生、相当不気味だったと思うが笑顔で写真を撮ってくれたイッセーさんのことは今でも好きだ。

さて、一方勉強の方はと言うと、高3の大学受験も冬休みまではほとんどきちんと勉強しなかったせいで、すべりどめに考えていた大学も模試ではD判定(E判定の次に悪い)だった上、本命の大学は志望校を変えたほうが良いといわれ続けるほどずっと最低ランクのE判定(絶対受からないランク)だった。しかし持ち前の集中力で冬休みに寝ずに勉強をし、第一志望であった大学に入学。

ただし、冬休みに眠らない生活を送ったせいで、一度は目を開けたままぶっ倒れ、脳みその想像力や思考の留め金が外れるという体験をしている。体は動かず目は開いているので部屋の様子は見られるものの脳みそからいろんなものが溢れ出し眼前にはリアルとカオスが入り乱れ、「あ、これ死ぬな。。。」とぼんやり思ったが数十分で元に戻った。死ぬかもと思った体験はこの体験と阪神大震災のときであるが長くなるので割愛。

大学時代は当然のように音楽サークルに入った。音楽は先輩、後輩、同期の影響もあり完全にミクスチャー。「悪そうな奴はだいたい友達」的なものが唯一受け入れられない音楽(と言うか偉そうな、おしつけがましい、どやってる歌詞が嫌い)で、それ以外の音楽はほぼ辺境マージナルだろうがジプシーだろうがフィールドレコーディングだろうがフォークトロニカだろうがブラジルもフレンチもスペインも60年代ロックもフォークも歌謡もラテンもパンクもハードコアもエモーショナル系もハウスもダブもファンクも渋谷もとにかく色々聞いた。それと同時にサブカルっぽい映画や本もずいぶんと吸収していたと思う。

大学時代はさまざまなコピーバンドに参加したが、オリジナル曲をやるバンドとしては4つ上の先輩に誘われハードコアバンドに参加。難波ベアーズを中心に活動していた。最初はベース(ギブソンのサンダーバード)を弾いていたが、先輩からギターの座を奪い取りギター担当に変更。そのころギブソンのレスポールS-10というカスタムものを購入して、メタルゾーンとディストーションをかましていた。ギターとしてはもう一本フェンダージャパンのジャズマスターも所有しておりこれはジョンフルシャンテがジャガーを使っており、オフセットボディがかっこよかったので購入した。ジャガーはいまいち音が好きでなかったがジャズマスターはかなり好きな音だった。今でも好きである。

大学4年のころはデザイン学校に通いながらゼミやバイトに明け暮れていた。バイトは黙々と続けられる掃除バイトで最後はトレーナーにまでなり、もし就職がなければ雇ってあげると言われたが苦笑いして、お断りっぽい雰囲気で逃れたが、今考えたら結構大手の清掃会社だったからまんざら悪い話でもなかった気がしている。

 

当時はクリエイティブな仕事につきたくて、広告業界に進みたかったものの文系だったため就職は超氷河期で事務の仕事しかなかった。そのためクリエイティブな職に就くにはデザイナーになるのが早いのではと思いバイト代を貯めてデザイン学校にも通う、いわゆるダブルスクールをしていた。その甲斐もあって東京のデザイン事務所に就職が決定。2社内定をもらったが、より上司と馬が合いそうな小さい会社に決めた。給料は14万と大卒なのに激安な上多忙だったが、私のいたチームと隣のチームが音楽好きが多くなんやかんやと楽しく仕事をしていた。ちなみにどうでも良いが、もう一社内定いただいた会社の上司は中尾彬さんに似ていた。

上京してすぐは女性ボーカルを探しておりバンドをやりたいと思っていたが、なかなか見つからないので自分で歌うことにして渋谷のアピアで活動をスタートさせた。そのころは遠藤ミチロウさんや中村達也さん、三上寛さん、竹原ピストルさんなど今思えば結構すごい人たちともご一緒させてもらえたものだ。

そうこうするうちにデザイン事務所の仕事も3年となり土日深夜まで仕事の日々がつらくなりはじめ、もう少し音楽がやりたいと言うことで仕事を辞め、派遣社員として働くようになる。派遣仕事は暇だったのでさっさと1日の仕事を終わらせてシーケンサーで作曲する日々だった。この頃、3ピースバンドを組んでおり、試行錯誤を色々していた。毎週5曲作曲+3曲コピーをし続けたり、路上でやって怒られたり、、、当時のプロデューサーからは梶芽衣子を目指すよう言われていたが、違和感がぬぐい去れなかったのは正直なところだ。

さて、その派遣の仕事もあまりデザイナーとして得られるものがなくなりそうだったのと、バンドもそろそろ辞めようかと思っていたこともあり、大手ゲーム会社に転職。子供向けカードゲームの開発チーム所属となり色々な経験をさせていただく。音楽活動はこのころからソロスタイルでやるようになる。女性の弾き語りと言うとなぜか分からないがブルースの方の前座で呼ばれることも多かったように思う。木村充揮さんや近藤房之助さんなどの前座をやったりしていた。機材はテイラーのアコースティックギターを弾いていた。アルペジオが美しくきらびやかだからマーチンやギブソンより自分の奏法にはあっていたからだ。

仕事の方はと言うと、リーマンショックのあおりを受けゲーム会社を退社し、デザイナーとして台湾のPCメーカーへ入社した。そのころからギターを背負って会社へ入社していたが、心の広い台湾人上司のおかげでギター背負って行っても叱られることも無く、むしろ応援され、のびのびと働くことができ、音楽活動自体も土日祝日のみとはいえ、九州へ行ったり東北方面へ行ったりとかなり自由だった。このころになるとギターはガットギターになり、ボサノバというか、ジョアンジルベルトに出会ってしまい、ライブでもボサノバをやるようになる。そしていつしかヤンはおしゃれな音楽だと勘違いしてしまう人も出てきてしまうが、音楽の感じ方は人それぞれなのでその方がおしゃれだと感じればそうなのかも、とも思うが、やはり自分は泥臭いものに憧れがある。たとえばSister Rosettaのような感じだが、まあ日本人には無理があるかもしれない。そしてジョアンジルベルトはボサノバ界の談志だと思っている。(とりとめがなくなってしまいすみません)

その台湾メーカーで部長代理までいったものの勤続7年目の年に、思うところがあり転職を決意。アメリカの某老舗メーカーのアジア統括本部でマーケティング部所属広報課長となる。このシャイな私が、人付き合い苦手な私が広報、しかも未経験、、、辞令が出たときは一瞬気を失いかけたほど気が重くなる現実ではあるが、チャレンジと変革は大好物である。そして今の会社もギターを背負っていけるので英語できないけど今の会社は自分にあっていると思う。

現在は日本の音楽、海外の音楽問わずとにかく色々発掘して刺激を受けたいと思う毎日である。そしてギターはエレキ勢にグレッチのホワイトファルコン、ONGのブルースギターThe Man、フェンダーセレクトリミテッドのテレキャスターを中心に回しているが、2017年はエレキの年にしたいと勝手に思っている。

つづく

 

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